
信じるということ
クリニックの看護師さんのNさんが、「信じるということについてどう思うか」訊いてきた。信じると言葉で言うことは比較的易しい。でもどのような状況に置かれても、一旦その人を信じると決めたら、たとえ何があっても信じるということができるのだろうか?ただの人間でしかない僕が、信じようと決めた人のいろいろなマイナスの噂を耳にしても、たとえ自分がその人から嫌われても 信じ続けられるものだろうか?信じるということと 好悪の次元は明らかに初めから違っている。
そのことは分かっている。好き嫌いの次元と その人の掛け替えのなさの次元とは、初めから関係ない。嫌いであってもその人の内なる光を信じることはできる。現代は、或る意味平和な世界である。昔に比べればの話だが・・・嘗ての時代、一言間違えれば命が無かった。信じるということもまさに命がけだった。今、思うけど、自分の自発的な魂の意思で「この人を信じよう」と決めたら 何があっても信じたい。たとえその人からボロクソに言われても、徹底的に嫌われても魂をかけて、「この人を信じる」と決めたのなら、たとえこの身が引き裂かれても 永遠にその人の内なる光を信じたい。それが永遠なる魂としての 僕の真のプライドなんだと思う。僕は自分が信じると決めたものを、誰が何と言おうとこの魂の全てを賭けて信じる。人間としての僕は余りにも弱いけど、魂としての僕は強い。魂の真のプライドに賭けて 大切なものは何があっても 大切に心の中に抱き続けたい。
そのことは分かっている。好き嫌いの次元と その人の掛け替えのなさの次元とは、初めから関係ない。嫌いであってもその人の内なる光を信じることはできる。現代は、或る意味平和な世界である。昔に比べればの話だが・・・嘗ての時代、一言間違えれば命が無かった。信じるということもまさに命がけだった。今、思うけど、自分の自発的な魂の意思で「この人を信じよう」と決めたら 何があっても信じたい。たとえその人からボロクソに言われても、徹底的に嫌われても魂をかけて、「この人を信じる」と決めたのなら、たとえこの身が引き裂かれても 永遠にその人の内なる光を信じたい。それが永遠なる魂としての 僕の真のプライドなんだと思う。僕は自分が信じると決めたものを、誰が何と言おうとこの魂の全てを賭けて信じる。人間としての僕は余りにも弱いけど、魂としての僕は強い。魂の真のプライドに賭けて 大切なものは何があっても 大切に心の中に抱き続けたい。